日本史って苦手……戦国時代や幕末はおもしろいですが、平安時代や奈良時代、さらにその前の飛鳥時代となると……うーん、学校の授業を一つも覚えていない(。´・ω・)?
これが、「邪馬台国はどこだ!?」だったら、わくわくしながら日本地図を広げるのですけどね(笑)
とはいえ、飛鳥時代や奈良時代は、今の日本のもとが作られた時代です。
この時代に始まったことや作られた法律の中には現在まで受け継がれているものもあります。
そう思うと、ちょっと興味が出てくるかな?
ということで、今回は日本史上初の律令、大宝律令について調べてみました。
1.大宝律令とは?概要を解説!
大宝律令とは、701年(大宝元年)に完成・制定された日本の律令(古代国家の基本法)です。
日本史上初の本格的な律令でした。
その中身は、刑法にあたる「律」が6巻、行政法や民法にあたる「令」が11巻、合計17巻から成る法律です。
唐の律令を参考に作られました(特に律は唐律をほとんどそのまま借用)が、令については日本の社会や実情に合った内容になっていました。
大宝律令は文武天皇の時代に完成しましたが、そもそもの発端は天武天皇でした。
681年、天武天皇が律令制定を命ずる詔(「みことのり」天皇のお言葉)を発令、それを受けて、天武天皇没後の689年(持統3年)に「飛鳥浄御原令」が「令」のみで完成、制定されます。
このときには持統天皇の時代になっていたのですね。
持統天皇は天武天皇の皇后です。
飛鳥浄御原令には、令のみで律はありませんでした。
飛鳥浄御原令制定後も、令や律の作成は続けられ、700年に令が完成、その後律も完成し、701年「大宝律令」として制定されたのですました。
大宝律令の編集は藤原不比等や刑部親王らが中心となって行いました。
ということで、大宝律令は天武天皇が発端となり、様々な人物が関わり制定された、日本で初めての国家の基本法です。
【わかる歴史(飛鳥時代)大宝律令】
2.大宝律令は何のために作られて何が変わった?
大宝律令は、天皇中心の中央集権国家の体制を確立するために作られました。
大宝律令によって、中央の政治は二官八省の官僚機構によって行われ、地方は「国・郡・里」に区分されました。
【二官八省】
『二官』
・太政官
(八省統括と司法・行政・立法を司る最高官庁)
・神祇官
(朝廷の祭務担当・太政官と同様最高官庁)
『八省』
・中務省
(皇居の政務・官人等の名帳・諸国の戸籍・僧尼の名籍)
・式部省
(朝廷年中の儀式・学校)
・治部省
(氏姓・婚姻・喪葬・国忌・僧尼・外交)
・民部省
(田畑・道路・租税掌握・国家の会計事務)
・大蔵省
(出納・収納・物価の公定)
・刑部省
(訴訟の裁判・罪人の処罰)
・宮内省
(宮中や皇族の衣食住)
・兵部省
(武官の人事・軍事)
【地方(国郡里制)】
・国(国司)
・郡(郡司)
・里(里長)
国司は中央から派遣され、郡司は地方豪族から選ばれました。
国司の権力が強かったため、地方豪族の力が削がれ、中央(天皇)の力が地方の隅々まで及ぶようになりました。
また、大宝律令は、
・役所の取り扱う文書は元号表記
・印鑑を押す
・決まった形式以外の文書は受け付けない
などの文書や手続きなどの形式を重視する文書主義を採用、この結果、現在の融通のきかないお役所仕事ができたわけです。
はあ、役場からくる文書ってなんであんなにわかりにくいんだろう……書き方がちょっと違うだけで受け付けてくれないし”(-“”-)”
あと、民衆にとっては全くありがたくない話ですが、大宝律令によって「租庸調」の税制や「兵役」なども整備されました。
まとめ
以上が、日本初の律令、大宝律令についてでした。
上記の通り、大宝律令は豪族の力を弱め、天皇中心の国を作るための法律だったわけです。
天皇中心の国づくりについては、聖徳太子の時代から模索されてきたのですが、その頃は豪族の力が強すぎたためになかなか達成できなかったのですね。
聖徳太子の時代に物部氏、大化の改新で蘇我氏を滅ぼし、さらに白村江の戦、壬申の乱などを経て、天皇の力を徐々に強めてきた、その最後の仕上げが「大宝律令」だったのかなと思いました。
ところで、「笑い上戸」や「泣き上戸」、あとお酒が飲めない人を表す「下戸」など、お酒に関する言葉があります。
この「上戸」や「下戸」、実はこういった「律令」がもとになって生まれた言葉であることをご存知ですか?
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